7月27日

その夏は何かと蝉に苦しめられることが多かった。或る晩、私の寝室の窓際で一匹の気が狂った蝉が夜も遅いというのに鳴き始めた。はじめのうちは所謂断末魔の叫びと言うのだろうか、一夏を終えようとする雄蝉が交配を賭けて最後の存在主張・求愛を成し遂げようとしていることに労いを覚えた私は、少々うるさかったけれど我慢していた。直に止むだろうと高をくくっていた。しかし蝉は一向に鳴き止む気配を見せなかった。それはなんだか往生際の悪いような、卑屈な感じのする鳴き声であった。いずれは同じアパートの誰かが痺れを切らして、大きな音を立てたり、箒の柄で突っついたりして追い払うことを期待したのだが、その気配すら感じられない。もしかしたらこの恨めしい愛の絶叫は私の耳にしか届いていないのかもしれないと思うと、蝉には気の毒だが、私だって安眠を妨害され現に迷惑を被っている。気は進まないが自らの手で蝉を追い払うことにした。
 私はアパートの3階に賃貸物件を借りている。1階のみが大人が3人やっと立つことができる程度の庭が備え付けられており、家賃も割高に設定されていた。庭は高いブロック塀で周囲を覆われており、したがって日中お天道様がまさに我々の真上に位置する12時から13時頃にかけてのみしか、日の目を見ることがなかった。3階から見下ろしてみたところ庭は明らかに人々が景観を楽しみ、目を喜ばせるために存在しているのではなく、ただジメジメとした菌類、またそうした環境を好む虫類、爬虫類、両生類、無数の雑草、下手をすればそれら魑魅魍魎の頂点として君臨する鼠・烏にとっての格好の餌場として在るようにしか見えず、そんな土地の所有権をおっかぶることに加えて割増家賃を支払う契約を結んだアパート一階の住人のことをいささか気の毒だと思っていた。そして今私が憎悪する蝉、時間を弁えずに性欲を爆発させた挙句、関係のない人々の眠りを脅かしている虫畜生は、この庭から捻ったレシートのようにひょろひょろしく伸びた木の枝のどこかを拠点として、鳴きわめいているようだった。私はまず殺虫スプレーを取りに行って、戻ってきた。ためらいはあった。なぜならどれだけ腐った庭であろうが、人の庭で生育している気に殺虫スプレーを散布することは犯罪行為に限りなく近い行いであるからだ。手に握りしめたスプレー缶は時折底の方でカンカンと芯のある音声を発し、スプレーがあと2・3度は実践の場で活躍できることを暗に示していた。この手の防虫系キットについて言えば、尋常では必要な時に必要なものがなく、全く必要のない時にフラッと姿を現し、また喫緊で必要に迫られる時が来ると、嘘のように姿を消してしまうことが通例である。それが第一にモノが現にここに存在しており、しかも中身も十分とは言い切れないが、こちらの力量次第では予備を残して仕事を終えることも可能なくらいに残量がある、ときている。これは非常に稀なケースであることを私は誰かと共有したい気分に陥ったが、そのような相手を有していなかった。
 早速ベランダから、顔は見えてしまわぬよう殺虫スプレーを握りしめた腕のみを差し出した。鳴き声が聴こえてくる方から音の出どころは大体推定することができたので、そちらに向けて私は殺虫スプレーの散布を開始した。空気中に舞った散布剤は瞬く間に風にされわれて砕け散り、虚しく消滅した。何度試したところで結果は同じであった。私は諦めてベランダから身を乗り出して、一階から伸びる呪いのヒョロ木を見下ろした。このヒョロ木のどこかで此度の性欲蝉が愛と性欲が混ざり合ったことによって生じたエネルギーをもてあまし、内部爆発に呑まれ、ついにはこうして気狂いのように12時を過ぎて鳴きまくっているのだ。私は情けなくなり少し量が減り軽くなった殺虫スプレーを片手にとぼとぼと寝室に引き返した。思えば屋外にて殺虫スプレーを撒き散らすという行いは生まれて初めてだったかもしれない。殺虫スプレーによる毒殺は明らかに昆虫の好き好きに関わらず、倫理観の欠如からもたらされる、まさに人間的エゴイズムの行いである。しかし実際は蚊取り線香などと言ってねじねじとした殺虫香を豚の焼き物の口やら鼻やら判別のつかない箇所に放り込んでおくと、蚊もいなくなり、風流でもあり、あたかも夏の風物詩のような特権を甘んじて受け止めている。屋外で散布する殺虫スプレーの殺伐とし、すれ違う刑法に肩をぶつける程度の接触は行のうているのではないかという背反の感覚。それに比して、手放しに夏の風物詩・風流だねと囃し立てられる屋内殺虫戦術蚊取り線香の決定的な違いはどこにあるのだろう。答えはすぐにでる。本質的なところでは、室内でも屋外でも小さなものの殺生を行うことは、これは倫理に反する。しかし自宅という人工的にプライベートであることを宿命付けられた空間に魑魅魍魎であるところの昆虫が侵入し、まして主人の腕に針を突き立てて血液を吸引しようというのだから、たしかにこれは万死に値するのかもしれない。しかし私が今空いていにしている蝉は屋外で鳴いている。どうしようもできないし、地球上でならどこで蝉が鳴こうが自由である。蝉の権利と人間の権利が衝突するような法廷論争を私は未だ目の当たりにしたことがない。
 屋外に向けて殺虫剤を散布したという罪悪感は、あとから蚊に刺されたあとのようにジクジクと膨れ上がり、ついに私は妄想を開始していた。それは要約すれば殺虫スプレーを屋外で散布することは広い意味で生態系全体を敵意を持って脅かしていること変わらないのではないか、という結論に至ったのである。それは海に向けて、広いから大丈夫だよ、とフライパン一杯の油を注いでいるようなものである。こういうのは程度の問題ではなく、信条の問題なのである。とにかくこの晩私はひとつの信条を傷つけ、されに夜もほとんど眠られなかった。朝起きると、昨晩の蝉が果たしてどいつなのか判断することが不可能であるほど、全周囲から蝉の鳴き声が炸裂しており、ウンザリしながら自宅から最寄りの駅にまで出発した。

 平日14時の気だるい電車に揺られている。車内には上を向いて眠っている洒落た身なりの老人、おそらくは学校をサボっているのであろう二人組の私立女子高生、膝の上に載せたパソコンをしきりに叩いている若いサラリーマンと、私がいた。車内では私だけが異質な存在であるように思われた。なぜならその時の私は全身パジャマにつっかけという、まるで目が覚めてすぐにマンション一階のゴミ捨て場に走る時のようないでたちをしていたからだ。女子高生二人組が交互に私に視線を送っているのを背中で感じた。たぶんあそこに変な男がいるよ、写真撮っちゃおうよ、などという内容の話でもしているのだろう。どうにも居心地が悪いので、私は終始目的地に早く到着することばかり考えていた。しかし電車というのは個人の意思とは関係なく法定速度を遵守して走行するばかりで、早く着きたいとか、急ごうという意思を持つことがはなから無駄・無謀であることを私は理解しており、ひたすら無心になることに専念した。

 昨夜見た夢について思い出そうとぼんやりしていると電話機が鳴り、耳に当てると救急車のサイレンが受話器の向こうから聞こえてきた。サイレンの合間に、人が何やらオムオムと言っているのが聞こえてきた。やがてその声は次第にはっきりしたものへと変わりとうとう認知可能な水準に到達せんとする時に、あの、ちょっと待っていただけますか。と電話の主は発言し、次の瞬間には通信が途絶えていた。私の頭はもとよりいくつかの出来事を同時に処理する能力に長けておらず、この一件についても、あとからあとから気がかりになった。わざわざ自宅の固定電話に電話をかけてくるような出来事である。私は通常スマホの電話番号を人に教えることにしているので、自宅の電話番号を知っている人は少ないと思う。仮に営業電話だとしても、救急車のサイレンのそばで営業活動を開始しようとすることはおかしい。待ってください、というのもおかしい。私ははじめから待たされてなどいないからだ。いや、もしかすると私は今待たされているのかもしれない、とこの時になって思い至った。